芸術家とカフェとお茶

 

「どうしてミキはカフェに行くの?」と不思議そうな目で言われたことがある。

世の中にはお茶をほとんど飲まない人もいる、し

全くと言っていい程 カフェに行かない人もいる。

 

 どうして家でも珈琲やお茶が飲めるのに、わざわざカフェに行くんだろう?

それはまさに命題で カフェの存在意義に関わってくる。

誰しもが簡単に美味しい珈琲を入れられる Nespressoが自宅にあれば

カフェに行く必要なんかない。ない・・・のだろうか?

おそらく多くのカフェはふるいにかけられ、どさっと落ちてしまうだろう。

高いお金をとられるだけで 価値のないお店は多い。

けれどもそれでも残った店は その店の珈琲やお茶の味でなく

そこにしかない何かがあるから 人はつい足を運んでしまう。

 

 ウィーンにはカフェ・ツェントラールというカフェがある。

そこは19世紀末に青春ウィーン派と呼ばれる作家たちが

グリーンシュタイドルというカフェが閉鎖されてから選んだカフェで

今でも街に存在してる。

 

 教会を思わせるような高い天井、広々とした店内、

奥にはきらびやかなケーキが並び、真ん中にはグランドピアノが置いてある。

憧れて来てみたものの、私にはどうしてこの店に彼らが集い

丸一日も過ごしていたのか なんだかよくわからなかった。

一杯の珈琲を前にして半ば途方に暮れた私は

やることも特にないので店内をノートに描き始めた。

もう帰ろうか・・・と思ったその時、目の前のピアノに向かって

正装したおじさんがやって来て 生演奏が始まった。

今度は彼を描き始めた。美しい音色が続き いくつか演奏が

終わった後で 彼は私のとこに来た。「これは・・・僕のこと?」

私はドイツ語はわからないけど 身振り手振りでそうだと言った。

彼は微笑み、自分のピアノの席に戻って

「日本の曲だよ」と私に声をかけ

私の知らない日本の曲を演奏してくれた。

 

 

 見知らぬ一見の客と お店で演奏している彼と その時間

私たちは知らない人同士であったけど 心が通った そう思う。

そして私は立ち去れなかった。幾度もこの店を出ようとした時

また何かがやってきて けっきょくここが面白いから

まだそこに残ってしまう。それがカフェ だったんだ。

だからきっと 彼らも残った。はじめから1日も居ようと

思っていたわけではないのだろう。だけど立ち去ろうとした

その時に またドアが開いて あ、あの人!がやってくる。

それならもうちょっといようかな まだもうちょっと・・・

そうして時が経ち 気がついたら1日すら経ってしまった

そんな出会いがあったのだろう。

 

 カフェこそが教養の場であり 出会った人から学んでいった

そんな時代が確かにあった。カフェはそんな場であった。

カフェには面倒くさい人たちがいた。

「カフェ・ツェントラールはウィーンの経度の下では

孤独の子午線の上に位置している。その住人たちは

大部分が人間嫌いと人間好きとの性向が共に同じほど

激しい人たちであり、一人でいたいと欲しながら、仲間をも

必要とする人たちである。」(平田達治『ウィーンのカフェ』p.254)

 

 一般社会とはなんだか相容れない人たちの 避難所であったカフェ

そんなカフェにはいつだって ちょっと強めの飲み物がある。

フランスのカフェにはエスプレッソ 中国の茶館には濃い中国茶。

自宅で飲むような なんとなく薄めの飲み物ではなく

はっきりと身体の機能の違いを感じる 脳みそがクリアになっていく

精神がさわやかになっていく そんな飲み物が置いてある。

 

 今になって私は思う。お茶や珈琲を愛した芸術家たちというのは

面倒くさい人たちだったのではないか。気分にどうしようもない

波があったり ちょっと癇癪持ちであったり 普通に生きられる人たちのように

日々穏やかには生きられない。自分ではどうしようもない気持ちの揺らぎ

それを落ち着けていくために 1日に何杯も 珈琲や茶を

飲まずにはいられなかったのではないかと思う。

 

 

 他の人のようになりたくっても そうなれない自分がいた。

彼らの真似をしてみても 喜びを感じられなかったのかもしれない。

ウィーンのカフェに集い、のちにパリのカフェにも姿を見せた

作家のシュテファン・ツヴァイクは高校時代にはさんざん

友人たちとカフェに行き、議論も戦わせていたそうだけど

最終的に芸術の世界を諦められなかったのは自分一人で

後は普通に公務員や弁護士などになっていったと述べている。

他の人のようになってみようと思ってもなれない自分。

自分の中にある波に 飲み込まれそうになる自分

それを落ち着けてくれる場所 が カフェであり

それを促すものがお茶や珈琲だったのかもしれない。

 

 きっといつも 心穏やかに生きられる人は

お茶は必需品ではないのだろう。どこかで無理矢理息を吐く必要がなかったら

カフェに行く必要もないのだろう。フランスの映画を見ても

登場人物の精神がぐらぐら揺れた時 に 彼らはカフェに立ち寄っている。

カフェやお茶 というものは 揺れ幅が大きい人たちにとっての

精神安定剤なのかもしれない。